2・約束の温もり
10歳の誕生日。
大人達は私の笑顔イコール自分の出世という打算だけの為に幼い少女に媚を
売っていた。
だけど当の本人の私にはそんな事関係なかったし、無邪気に振舞うのも疲れ
父の目を盗んで屋敷を抜け出した。
父は裸一貫で会社を興し、目覚ましい成長を遂げ、常盤グループの名を国内
…国外にも轟かせる事に成功した。その誕生パーティーは、私の為だけという
よりはグループの発展を祝う場でもあったのだと思う。
だけどその陰では今までの立場を崩し、堕ちていった者も居る。容赦なくラ
イバルを蹴落としていった父は、当然恨まれもしていた。
金の事ばかり考えている大人が酷く汚いものに見えて、手渡される高価なプ
レゼントなど何も嬉しくなかった。
近所の長い並木道を抜けると、小さな公園があった。
五月の風は爽やかで暖かいのに、ブランコに一人ポツンと座るその少年はマ
フラーをしていた。子どもには似合わない、落ち着いたベージュ色した長いマ
フラー。
「寒いの?」
私はブランコに近付き、声を掛けた。歳は私と同じくらい。
「風邪ひいてるから」
「風邪ひいてるなら、お外にいたらダメよ。ひとりなの? なんでココにいる
の? もうすぐ夕方になるから、きっと寒くなるわ」
少年はその言葉は無視して、私の全身を見た。パーティーからそのままの格
好で出てきた私は、公園には似つかわしくないピンクの光沢のあるドレス姿だっ
た。
「パーティー?」
そう言う少年の服装も、よく見れば子ども用のスーツだった。
「…あなたも、そうなの?」
「おとーさんの会社のえらい人のパーティーらしいけど、おれは知らない人だし
つまんないから抜け出したんだ。お前もか?」
「うん…なかま」
そこからは子ども同士、仲良くなるのは早かった。口は悪いけれど、あまり公
園で遊んだ事が無い私に色々な遊びを教えてくれて優しかったし、何より損得勘
定やお嬢様だからという差別も無く接してもらったのは初めてだったから、その
裏の無い笑顔に惹かれていた。初恋だった。
「これ、やるよ」
少年は、ポケットからリボンを二本取り出し私に差し出してきた。
「かわいい…」
「今日の、お前の服と同じ色だからきっと似合うよ。さっきおとーさんに買って
もらったおかしつつんでたヤツだけど…」
「でも、うれしい。ありがとう。あなた、王子さまみたい」
「おれが王子さまだったら、お前はお姫さまだな」
照れながらそう答える少年が、本当に王子様に見えた。
楽しい時間を過ごしていたのに、そろそろ屋敷に戻ろうと二人並木道を歩いて
いた時に悲劇は起こった。
父の所為で仕事を失った男が、いきなり私にナイフ片手に襲い掛かってきたの
だ。父への恨みを叫びながら。
「きゃぁっ…!?」
一瞬の出来事だった。私を庇うように前に出てきた少年は、ナイフの男と衝突
した。青褪めた顔で逃げ出す男と、蹲る少年。足元には血痕。
「っく…」
泣かずに、声も殺して、ただ左腕を押さえる少年を見て、私は大泣きした。
通りすがりの人が通報したらしく、パトカーと救急車のサイレンがけたたまし
く鳴り響いた。続いて野次馬を掻き分け、騒ぎを聞きつけた常盤の関係者が駆け
寄ってきた。
「みきちゃん!!」
幼馴染の香の悲鳴。泣いている私が無傷なのに安堵したと同時に、少年の酷い
怪我に動揺していた。
「ごめんなさい…私のせい…」
「…泣くな…お前、何か悪いことしたのか?」
泣くなと言われても溢れる涙を隠す為俯いて、首を横に振った。
「ならあやまるな。王子さまはお姫さまを助けるものだろ?」
「……会えなくなっちゃったら、やだよぅ…」
少年は、血まみれの手で自分のマフラーを取り、私の首に巻いた。
「目印。ガラスのくつのかわりな。これ持ってたら、どこにいても見つけるから」
「約束してくれる?」
「泣きやんだらな。笑顔のお前、かわいくて好きだから」
私はごしごしと目を擦り、涙を拭って少年を見た。
「もう泣かないよ。つよい子になって待ってるから、早く元気になってね…」
「とうぜんだろ。これくらい…平気だって…」
辛そうな表情から無理して笑顔を作って、頭をポンポンと叩いた彼は、そのま
ま救急車に乗せられた。
「……んクン」
私を抱きしめるように寄り添う香が何か小さく呟いたが、やっぱり止まらない
涙を堪えるのに必死であまり聞き取れなかった。
その時から常盤の名を嫌うようになった私は、逃げるように会社のパーティー
は駄々をこねてでも欠席した。もう王子様はあんな目に遭ってウチのパーティー
に来るわけがないと思ったし、会いたい気持ちと同じくらい、負い目を感じて会
えないと思ったから、万が一彼が来ていたらと思うと怖かった。
男兄弟が居ないから当然常盤を継ぐのは私だったが、迷惑を掛けるとわかって
いながら妹の紗夜子に全てを投げた。
約束だから泣き顔は誰にも見せなかった。だけど同時に笑顔も失った。
冬になると、毎年王子様が残したマフラーを巻いた。彼の血はすぐに洗ったか
ら綺麗に落ちたので、後は見つけ出して貰うのを待っていた。関係者から彼の名
前を聞く事も出来たかもしれないが、それをしなかったのは、自ら会いに行って
自分を拒まれた時立ち直れないと思ったからだ。
あの時と同じ髪型で、両サイドには耳の上辺りにピンクのリボン。
見つけてもらう準備はそれだけじゃない。色々な場面で自分の存在をアピール
して気に留めてもらう事。
その為に沢山の習い事をしたし、勉強も寝る間を惜しんで頑張った。
手掛かりは、マフラーに書かれた彼のイニシャル『S・H』――――
中学生になった頃から、全国模試を受けると必ず私の次に名前を連ねる男が居
た。一度も抜かされた事は無いけれど、離れた事も無い。
名前は『葉山 駿』。私は彼の事が気になってしょうがなかった。だって、イ
ニシャル『S・H』の男。学校は隣町にあるこの辺りじゃ有名なエリートの集う
男子校だった。私は彼が王子様ではないかと思い、会った事はなかったが密かに
憧れていた。私には敵わないまでも、文武両道。当時反抗して小学校から大学ま
でエスカレーターの女子校を辞め公立の中学に通っていたが、やはり彼に見合う
自分になろうと、その頃香の親が新設した学校を受験した。それが私立高島学院
だ。高校から大学院まであるが、簡単なエスカレーターではない。普段から優秀
な成績を残している者しか進学は優遇されず、学院の生徒でさえ、進学には厳し
い試験を受けなければいけない。クラスもAからFまでは成績順だし、取得しな
ければならない資格もあった。ここなら彼と釣り合いも取れる、そう思った。
高校生になり、初の全国模試。彼は初めて私に大差で負けた。
首位の私を始め、上位の殆どが高島学院の生徒だった。次の模試で彼が二位の
座を取り返したものの、点数を見るととても苦しそうだった。
そして今年の春、二年生になって彼は私の在籍するAクラスに編入してきた。
「転入生を紹介します」
最初、女子生徒のざわめきにも興味は湧かず窓の外を見ていた私だったが、教
師がその転入生の名を葉山と口にした瞬間、胸が高鳴り黒板の方を見た。
そこには、当時の面影を残しつつも、それはそれはカッコ良く成長した彼が立っ
ていた。やっぱり彼が王子様だったのだ。
嬉しくて柄にも無くそわそわした私の心を見事に打ち砕いたのは、彼の自己紹
介だった。
「葉山駿です。この学院で常盤魅綺に勝ちたくて転入してきました」
「……!?」
クラスメイトは一斉に私を見た。窓際最後尾の特等席に座る私を見つけた彼は、
教師に頼んで隣の席にやってきた。
「お前が常盤魅綺か。もっとガリ勉想像してたけれど、美人なんだな」
「…無駄話はやめてくれない?」
もっと感動的な再会を思い描いていたのに、こんなのってない。しかもなんだ
か随分軽い性格な様で。
「授業、始まるから」
締め付けられる胸。本当はあの時の少女だと名乗り出たかったけれど、なんだ
か腹が立って悪態をついてしまった。今更素直になれないこの性格を恨みつつ、
当分こんな態度が続いた。
「ねぇ、駿君っ!」
同じクラスには、香とその双子の弟・薫が居る。香は誰とでも気軽に話す明る
いコだし、薫は学級委員長でもある優等生タイプ。どちらも勝手のわからない彼
を早く馴染ませようと休み時間のたびに話し掛けていた。
仲間に入りたい気もしたが、授業中何かと話しかけてくる彼をことごとく無視
していた私が休み時間になった途端フレンドリーになれる訳もなく、ぼんやりと
窓の外を眺めている他なかった。
「――…で、お願いしたいんだ。魅綺ちゃんも」
私の名前が聞こえ、彼らの方を見た。
「魅綺ちゃん、聞いてた?」
「聞いてないわよ。何?」
「毎年恒例の演劇、今年の主演は魅綺ちゃんと駿君にお願いしたいなって話」
にこっ。
香の笑顔に、私は何を言われているのかイマイチ状況が掴めずにいると薫が補
足してくれた。
「ホラ、僕達演劇部でしょう? 人数不足で二年生ながら香が部長になったんだ
けど、演劇部を発展させる為にも魅綺ちゃん達に協力してもらいたくてお願いに
来たんだ」
「…私は演劇部じゃないわ」
「毎年五月末に全校生徒を集めて演劇を公演しているのは知ってるよね? 魅綺
ちゃんが部員じゃなくても、華のある魅綺ちゃんに憧れて部員が増えるのは必至。
併せて駿君は新しくこの学院の仲間になったばかりだから、一日でも早く馴染め
るようにって」
学院では全部活動の士気を高める為に年間通して一度以上は全校生徒の前で活
動の成果を公開する場が設けられている。部員の勧誘効果もあるし、学院側で手
配しその道の関係者に視察させる為、将来が掛かっているとなると生徒も必死で
取り組む。そういった制度は私も感心していたけれど。
「だからって、勝手過ぎるわね。大体、彼だって嫌じゃないのかしら?」
香と薫を見てから隣の席の彼に目をやると、彼は笑っていた。
「俺はいい機会だと思うけれど。常盤魅綺の実力がどれ程のものか、競演する事
で身をもって確認出来るんだしな。高島、俺はそれ、乗った」
「ありがとう駿君♪」
「流石、駿君は話がわかるね」
それに比べて…と私を見る二人。
「もしかして、天下の常盤魅綺も演技は苦手か? 俺の才能の前に自分が霞むの
が嫌で出演拒否してんじゃねーの?」
彼の意地悪い一言で、私も参加する意志を固めた。
その日の放課後、香の指示通り演劇部の部室に向かった。
体育館利用の部活の部室は、体育館の二・三階に並んでいる。帰宅部の私は初
めて入る場所だ。体育館入り口手前のドアを開くと、上階へ続く階段がある。
その入り口付近に彼の姿を見つけた。
「何ウロウロしているの?」
「と、常盤魅綺…」
「……前から言おうと思っていたんだけれど」
「何?」
「フルネームで呼ぶのやめてくれない? あまり苗字は…好きじゃないの」
「――あぁ…悪い…」
いつものノリで明るく切り返してくるかと思ったのに、意外にも本気で申し訳
なさげに謝る彼に戸惑った。
「…で? まさか部室、迷ってたの?」
「俺が方向音痴な訳じゃなく、この学校が無駄に広すぎるんだ!」
「ココの扉を開けると、階段があるのよ」
「うぉ!? すげー、こんな所に…ッ!」
キョロキョロしながら付いてくる彼。演劇部は三階の西側突き当たりだと聞い
ていた。背後が気になりつつ、平静を装い部室に向かった。
「あ、魅綺ちゃん!! …と、駿君も一緒に来たんだね」
中には香がTシャツとジャージ姿で待っていた。
「まさかもう今日から練習?」
「ううん、今日は簡単な打ち合わせだけ。私は色々衣装の準備とかするのに動く
からこんな格好だけど、二人はそのままでいいからね」
そして机の上に置かれた分厚い台本を手渡された。
「結構本格的なんだなー。へぇ、シンデレラ?」
「そ。駿君は王子さま。魅綺ちゃんはシンデレラ。二人とも部員じゃないのにご
めんね。二人の台詞が殆どだよ」
「……」
これは高校生がやる劇で、学校行事…の筈なんだけれど、キスシーンがあるの
はどういう事か。
しかも、香の丸っこい小さな字で、
『絶対ホントにする』
と念も押されている。
「…ちょっと購買行ってくるわ…」
「もうすぐみんな来ると思うから、それまでに戻ってきてね〜」
ファーストキスの相手は王子様がいい、なんて思っていたけれど、実際に目の
前の彼を見てそんな事をまだ考えているかと言えば違う。
そういう事は付き合ってから順を追って…と思うし、しかも公衆の面前で。
だけどやるからには完璧にしないと。あんな言い方されて尻込みしたら口惜し
い。本当にすると言っても彼なら上手く“フリ”が出来るに違いない。
購買でりんごジュースを買って、重たい足取りで部室に戻った。
「ただいま…」
「あ、丁度今みんな揃った所だよー。じゃあ、始めよっかー」
彼の隣の席が用意されていたのでそこに座った。あの問題のシーンが描写され
たページを見たのか見ていないのか、彼は余裕のある表情で私を一瞥した。
帰り道。
打ち合わせはあまり頭に残らなかった。香の説明も、部員達の励ましも、全て
隣に座っていた彼に邪魔された。気になってしょうがなかった。
「…そして何処までついてくる気?」
校門を出て暫くしても隣りに当然のように並んで歩く彼に問うと、これもまた
当然のように
「家まで」
と返された。
「…歩いて1時間は掛かるわよ? 私の家」
「でも、とき…魅綺は歩くんだろう? なら、俺も」
「送って欲しいなんて、言ってない…」
フルネームじゃなければ名前で呼び捨て。まぁ、いいけれど。
「俺さー、多分…魅綺と会った事あると思うんだ」
彼の言葉にドキッとした。私があの時の少女だと、気付いたのか…――
「その手の口説き方はもう絶滅したと思っていたけれど」
わざとはぐらかそうとしたけれど、私の頭のリボンに手を伸ばした彼の顔は真
剣だった。
「…これ……いや、そんなハズ…」
「……っ」
名乗り出たい気持ちと、あんな目に遭わせておいて今更どんな顔をすれば良い
のかという気持ちの葛藤の末、何も言えずに終わった。
「とにかく、魅綺の事は家まで送る。劇の練習期間はずっと。こんな美人、暗い
道を一人で帰すわけにはいかないだろう?」
「…別に、平気なのに…」
本当に家の門の前まで送ってくれた彼は、「また明日」と笑って見せた。
この家に見覚えは無かったのか…そこまでは彼の様子からは読み取れなかった。
翌朝、家政婦の麻里子が部屋にやってきた。
私は大分前から家政婦の世話になるのを断っていて、料理すら自分で自室の横
の私専用キッチンで作っている程だ。麻里子が私の部屋の扉をノックする事は珍
しい。来客時くらいだ。
「おはようございます、魅綺様。お客様が…恐らく魅綺様を待っていらっしゃい
ますが中にお通しいたしますか?」
「え?」
まだ朝の6時過ぎ。香や薫なら麻里子は勝手に通すし、何より特に約束も無い
のにこんな早朝に来るわけが無い。
慌てて窓の外を見ると、よく見えなかったが門の外に立つシルエットは彼のそ
れだった。
「あの馬鹿…麻里子、別に通さなくてもいいわ。私、もう出るから。暫く演劇部
の手伝いで朝早く出て帰りも遅くなると思うから」
「わかりました」
春とはいえ、まだ朝方は肌寒い。私がまだ寝ていたら待っているつもりだった
のだろうか?
「おはよう、早いのね」
「お、おう。おはよ…」
かなり眠たそうな表情の彼。
「約束、してなかったけれど?」
「昨日の夜帰ってから思いついたんだ。朝早いのにあんな長時間一人で歩くなん
て心細いだろうなって。携帯聞いてなかったから、アポ無しで来た」
「馬鹿じゃないの? 私がもっと早く出てたらどうしていたの?」
「朝練が7時半だから、まさか5時半に来て行き違う事は無いだろうなって思っ
たからさ」
「そ、そんな時間から…?」
「ははっ、俺って優しいなー」
「……携帯貸しなさいよ」
「へ?」
「いいから」
私は彼の携帯電話を奪い、自分の電話番号とメールアドレスを登録した。
「そういう無茶はしないで。何かあったら、連絡しなさい。それと…」
彼の冷たくなった手を取り、ぎゅっと絡めた。
「繋いでるんじゃなく、私のせいで風邪引かれたら迷惑だから暖めてるだけだか
らね」
「…意外と優しいのな」
「い、意外って失礼ね」
「魅綺、急いで出てきてくれたんだな」
「誰がアンタなんかの為に…!!」
「――…いいけど。俺、魅綺が寝癖つけてるの初めて見たなぁ〜」
ニヤニヤと私を見る彼が、私と向き合って寝癖の部分を撫でた。
「俺と付き合って欲しいんだ」
「…え?」
「魅綺って、なんか不思議なんだ。何かを感じるというか…とにかく、俺を好き
になって欲しいんだ。多分…俺の記憶が間違ってなければ、魅綺と会った事ある
と思うんだよね。魅綺は俺の大事な人に違いないんだ」
「…私の事、好きなの?」
「少なくとも、好きじゃないのに付き合おうとは思わないな。そこは最低条件じゃ
ね?」
「……何処がいいの…私みたいな…」
「お嬢っぽいイメージなのに、そうでもない所だろ? それから、気強い感じだ
けど、実際は押しに弱かったり…人間味があるところ」
「――……」
容姿や勝手なイメージ以外を言われたのは初めてだ。
突然の告白に呆然としていると、彼は間を持たせようと必死に話した。
「勿論、魅綺くらいのコだったら色んな人に告白されてるのもわかる。だけど、
多分俺程魅綺と釣り合う男も居ないと思うぜ? 賭けをしないか?」
「か…賭け?」
「んー、ゲームって言うか。もし、この劇が終わるまでに俺の事を好きになって
くれたら…『駿』って名前で呼んでよ。それをOKのサインにしよう。好きにな
らなかったら…俺は諦めるから」
「…なんだか一方的だわ」
「でも、魅綺は損しない」
相手は王子様。断る理由など無い。
「…しょうがないわ。そのゲーム、参加してあげる」
そんな強がりを言ってしまった手前、すぐに名前は呼べないな、と思った。
ゲーム終了まで、一ヶ月強。
こんなに誰かに気持ちを振り回されたのは、多分これが初めてだった。
恋人なんて居た事ない。好きな人だって、“王子様”に憧れてはいたかもしれな
いが幼い頃の淡い気持ちの延長だった。周りの言う『好きな人』とは微妙に違った
ように思う。
香や薫も私の知るところでは誰かと付き合ったりはしていないし、誰が好きだと
か色恋話はした事もない。
周囲の人間の言葉を借りれば私は“モテる”から、交際をせまられた事は数え切
れない程あるけれど、私の気持ちが1ミリも揺れる事は無かった。
それがこんなにも動揺している。
駿――…そう名前で呼ぶ時が、付き合い始める時。
じゃあそれまで何て呼べばいいのだろう?
「な、このまま手繋いで学校行こうぜ?」
「…ばっ…!! だから、繋いでるんじゃなく…」
「暖めてるだけ、ね? じゃあ、俺寒いから暖めて♪」
「つ、付き合ってないんだから…調子に乗らないで…ッ」
「動揺? 天下の魅綺様も俺を前にしたら可愛い女の子だなっ」
「……馬鹿、誰が動揺なんか。手くらい勝手に繋げばッ? そのくらい余裕でサー
ビスよ」
彼は声を出して笑った。
そんな風に誰かに笑ってもらった事なんて無かったから、多分、それが嬉しくて
彼になら素顔を見せても良いかも、なんて思った。
この時、私は初恋の相手にもう一度恋をしたんだ。